短歌日記 二つの意味。

ちょっときつい歌かも知れない。
自殺する人は僕らが認識している現実以上に多いと考えて良いと思う。そしてその多くはその前に「死にたい」と云う明確な発言はしないと聞く。後になって周りの人が考えてそう云えば元気がなかったとかそういうエピソードがあがるくらいだ。一方、死にたいと何度も訴える人は案外自殺しないという俗説がある。皮肉なことだ。
一方で、「死にたい」と云う発言は誰かに向けた何らかの意図だ。その意図が必ずしも自殺にあるかどうかは知りようが無いが、誰かに向かって意図的に発せられている言葉であることは確か。「死にたい」と云っている時点ではその人はまだ生きている。その言葉が向けられている「対象」がその言葉に慣れてしまうのは仕方のないことかも知れないが、その言葉が続く限りはその意図は伝わってはいないのか、その発言の意図を生み出す事柄が解決されていないのだろう。「死にたい」と云う人は生きている。その言葉を発する人にとっても受け取る人にとってもその事実だけを抜き取れるとしたならば、前者に比べればまだ救いようがあることなのかも知れない。
人の生き死にを短歌にするのは安直すぎて良くない。安直であってもあることを表現せざるを得ない時はいつかはあると思っているし、技術が向上して巧みに比喩とかを使えればよいのかも知れないけれど、それが出来る時がその歌を詠みたいときかどうかは判らない。どの歌を何時に詠んで何時発表するかはあまり理性的あるいは技術的な問題では無いと云うのが今の結論。