枡野浩一トークイベント行きたかったなぁ。とか云いつつ穂村弘が京都で開いたワークショップに参加する予定だった出石正比古です。結局どこも行かずで得るものの少ない週末でした。
そのトークイベントでは「かんたん短歌blogは行き詰っている」と仰ったとかとかとか。うーん。ぶるぶる。今月のお題「雨」は頑張ろうと思っていたのに厳しい一言。正岡さんが仰ったそうな「いきいきと行き詰まる(ということもある)」だったら良いのだけれど。
あちこちで感想を読む中考えたこと。僕は誰に対して詠んでいるのかってこと。かんたん短歌blogでは枡野浩一に認められるため? 短歌研究では各コーチに認められるため? 認められたら満足か? それじゃあ、自己満足で良いのか? 誰からも愛されるスターになりたいのか、通にしかわからない僅かな違いを打ち出したいのか。
官能の細やかさは経験によって研ぎ澄まされる。官能が細やかになるのは幸福なのか不幸なことなのかわからない。漁村に住んでいる僕はやはり魚、特に生魚の味に鋭い。大学生になり所謂都会に住むようになってからついぞ美味しい生魚に出会ったことはない(門司の河豚は絶品だったが)。これって幸福なの? 不幸なの?
歌の善し悪しなんてあまりわからない。好き嫌いはわかる。善し悪しの軸と好き嫌いの軸が重なる様であれば、短歌に対する感覚が細やかになったと云えるだろう。そして、その細やかな感覚は必然的に自分の歌の詠み方に影響するとすれば、「所詮おまえにはわかんないだろう」的な短歌になりはしないか。それは「誰も僕の歌の善さなどわからないだろう」と云う独善的な考えに至らないだろうか。
この辺の答えが「かんたん短歌」と云う概念と関わってくるのだと思う。
それと、話の隅っこに私、出石正比古が出てきたと云う噂も。何が語られたのだー。もんもんもん(自意識過剰)。
と云う内容を枡野さんにトラックバックしみるテスト。