「世界音痴」穂村弘(小学館)

いや、穂村弘恐るべし〜。見事なまでの駄目っぷりを見せ付けてくれて共感させてくれる一方でぞっとするくらいの鋭い記述。可笑しくて痛々しくて苦しくなるそんなエッセイ。


「俺、今、ヒサハルを捜しとるから、急いどるんだわ。だから、早よ、そのパンピーを飲め。
私が、ん? ん?という顔になると、「ここで飲み終わるとこ見とったるから」とイシハラくんは云った。「ひとりで飲むと、むなしいだろう?」
それは、全く奇妙で、完全に的外れな優しさだった。いや、それは優しさですらなかったのかもしれない。だが、その冗談のようなひとことで、自分でも驚いたことに、私は泣いてしまったのである。
なんか、わかる気がする。世界とのコネクションの回路が妙なのだ。
彼は、大学時代のサークルでトレーニングをしていたときを回想する。

ある日の夕方、いつものようにひとりで走っていたら、突然足が攣って、倒れ、そのとき時計台の鐘が鳴り出した。
僕は道端に転がって、脂汗を流してふくらはぎをさすりながら、激しい鐘の音を聞いていた。
あの鐘の音をおぼえている。
鐘の音をおぼえている。
おぼえている。
あれは、ついこの間のことのように思えるのに。
気がつくと、僕は三十八歳で、ネクタイを締めて、総務課長で、妻もなく、子どももなく、ポセイドンもロプロスもロデムもなく、大トロの半額パックを手に持って、うまいかまずいか、新鮮か腐っているか、得か損かを考えている。いつのまにこんなに遠くに来てしまったのか。
「ああっ」
(ああっ)(これでぜんぶなのか)(人生って)(ほんとうに)(まさか)(ぜんぶ)(これで)(そんな)
すばらしいことってあったのか。すばらしいことってなんだったんだ。
こ、こじれている。徹底的にこじれている。素晴らしいことを享受する人は素晴らしいことなど考えない。なにも無かったぽっかりと空いた時間の穴がそこにはある。
例えば、歩き方を考えてみる。右足を上げて左手を振り出し、右足が地面についたと思ったら右手と一緒に力をこめて地面を手繰り寄せながら左足を前に出そうとし右足で地面を蹴りだす…。ああ、足がもつれる。そんな感覚なのだ。夜、自分の呼吸が何故か気になる。気にしまいと思うと呼吸が止まってしまう。く、苦しい、息をしなければ、しかも規則的に一定の量をそして永遠に…。生に対して不自然であるということは対立概念であるとも思える。生は自然であり、不自然なのは生以外の何か。その何かというところに自分の本質がある。
不自然さを抱えた自己を対象化するための器をもつ必然性が彼にはあり、彼はそれゆえに短歌という形式(器)に傾倒するようになる。
うーん。シンジケートを読まねば…。