短歌日記(短歌日記短歌化)

  • 二時間目抜けだし美術準備室へ 怒ってくれる僕の先生

NHK教育「眠れない夜はケータイ短歌」題詠「教室」への投稿歌
この歌は、僕の好きなバンドであるRCサクセション(ボーカルは忌野清志郎)が72年にシングルリリースした「僕の好きな先生」*1短歌化したものなのだ。以下、その「僕の好きな先生」の歌詞より抜粋。


タバコを吸いながら 困ったような顔をして
遅刻の多い僕を くちかずも少なくしかるのさ
僕の好きな先生 僕の好きなおじさん
忌野清志郎の高校時代は美術部だったっけか。その影響では全くないけれど僕は高校時代絵画部だった。絵画部には部室というものが無くて美術室で活動を行っていた。その美術室の隣にはドアを隔てて教官室と美術準備室があった。その美術準備室が絵画部部室のようなもので、画材やらエプロンやら何やらいろいろと置いていた。
尤も、美術部とは名ばかりで毎日一生懸命に絵を描いているのはごく少数。僕なんかは毎日通ってはいたけれどその時間の殆どはみんなとおしゃべりに費やしていた(云い訳だけど、入部二年間に四枚の油絵を完成させていたわけで)。そのころの美術室は一種のサロンのようなところで、美術部員自身変わり者が多かったが、しょっちゅういろんな部外者が来ておしゃべりに参加した。まさに類は友を呼ぶという感じ。一時期はギターをやっている人が通ってて、少しだけ教わったりした(ビートルズの「マギー・メイ」が弾けるようになった)。また、やおいの人が居たりして自分で小説と挿絵をかいたホモ系同人誌を買わされたり、ホモ系のコバルト文庫の本を読まされたり、コミケについて行ったりもした(その後も何故か常に「やおい」とは接点がある)。それより、なんと云っても影響を受けたのが一つ上の先輩で、僕は彼女から澁澤龍彦を教わり、60年代ロックを訊かせて貰ったり、カフカに興味を持つようになた。とりわけ澁澤龍彦との出会いは衝撃的で、今では僕の書棚の大半は彼の著作で埋め尽くされている。
顧問は美術の先生。細身で飄々としていて髪の毛はいつもぼさぼさという冴えない感じの人だったが、自費で絵の具を買ってきてくれたり、いちいち指導はせずに放任で教えを請うたときだけアドバイスをくれるといった感じ。サロン的状況にあった美術部の活動にに対しても殆ど口を出さずに、逆にLIPTONの100パック入りの紅茶を常備してくれていたりと(その後、僕は紅茶党になる)、サロンとしての美術室を支えていてくれた。そしてたまに、何かこだわりがあるのか今もよく覚えているが決まって「ビーンズセンベイ」と云う特定のメーカーのナッツ入りのクッキーを買ってきてくれた。
僕は当時、学校はサボるは授業は抜け出すはテストでは赤点を取るはでかなりの劣等生で問題生徒だった。先生にもよく呼びつけられたし、校長室に呼ばれたこともある(校長室へ入ったのはその時と生徒会役員に就任したときと二回だけ)。僕は社会科で世界史を取っていて、10クラスあるなかで世界史のクラスは一クラスしか開講されず、かつ文系で化学をが開講されるもの一クラスだったので、時間割の都合で世界史か化学を取る生徒は二つの特定のクラスに必ず割り当てられるのだった。
そして、そのクラスは他のクラスに比べて何故か勉強の出来る人が多かった。10クラスあるうち、3クラスが理系で7クラスが文系。理系3クラスのうち、1クラスが入試からして違う「理数コース」という特別なクラス。文系のクラスのうち2クラスが俗称「世界史・化学」クラスで、3クラスが俗称「私立進学クラス」でおそらく成績別にクラスが割り当てられていた。残りの2クラスは俗称「就職・専門学校進学」クラスだった。何故か、クラス名に割り当てられている数字が大きいほど成績のレベルが違うという感覚を受けた。
僕の所属していたクラスは、文系の俗称「世界史・化学」クラスの数字の大きい方だった。僕がたまたま一学年次での進路決定に二学年次に世界史の単位を取ることを選択しただけで、全く成績のレベルの違うクラスに放り込まれた感じがした。何故世界史や化学を選択する人は成績が良いのかがわからないのだが、どうやらそうなっていたのは間違いない。実力テストのランキングには上位に位置する人が多かったし、大学受験後に廊下に貼られる「誰々 ○×大学合格」というのを見ると、そのクラスにいる多くの人は有名私立か国立大学に進学したようだ。ちなみに、僕は大学に合格したことを高校に報告しなかったので貼り出されなかったのだが。
故に、僕は授業には全くついていけなくて、英語の授業で訳を当てられる度に答えられなかったりして、最終的には先生が不憫に思ったのか僕には訳を当てなくなった。それは、先生としての優しさだったのだろうが、まだ純粋?だった僕はそのやるせなさに僕はすっかり学校での勉強が嫌いになり、授業をサボるようになった。それから、その高校は所謂地域の伝統校で文武両道を非常に重んじていた。毎年の10kmマラソン大会のために何日も体育の時間に走らされたり、跳び箱では、跳ぶときに跳び箱の上(自分の背のくらい高かったと憶えている)で倒立するように手をつき回転して着地するというアクロバティックなことをさせられ跳び箱から何度も落下したり三年生の冬の受験の時期なのに、グラウンドが雪で埋もれていてけがをしにくいからとラグビーをして、僕が背が割合高かったからと前のポジションにされて陸上部の凄い体格のいいのに本気でタックルされてはじき飛ばされたり、「格技」という授業で柔道を三年間していたのだが、組み手の相手が体重別でなくて身長別に決められ、当時の僕は身長175cm体重50kgと痩せていたのに、どう考えても体重差が20kgほどありそうな人と乱取りをさせられいいように投げられ倒されていた(相手は投げるたび謝ってくれてきまりが悪かったなあ)。何とか先生に相手を変えて貰うように頼んだが相手にされなかった。以来僕は体育会系の人間をすっかり信用できなくなった。そんなわけなので、体育の授業も限界ぎりぎりまでサボった。数学も全くわからなかったのでよくサボったなあ。今考えたら、馬鹿な上に努力もせずに人を恨んでばかりの自尊心だけは高い嫌ななつだったなあ。と、今でも大して変わらんかも知れんけど。
まあ、でも一応出席日数はちゃんと数えていて、補習を受けたらなんとか単位が取れるようにして卒業することは出来たのだが。体育の補習は、冬休みに一人雪かきをしてたのを憶えている。
と、話がずいぶんそれてしまった。そんな僕だったので、昼頃から学校に行ったり途中授業を抜けたりしたとき美術準備室に行って一人黙々と絵を描いていた。放課後の部活の時間は人がいるから集中して描けなかったので、作った作品は僕が授業をサボったおかげで描けたようなものだ。そうして授業中に準備室で描いているとたまに顧問の美術の先生がやってくる。「授業はないんか」と一応訊かれるが「サボっちゃいました」と云うと「あんまりサボったらあかんぞ」と云うだけであとは黙認してくれた。
絵画部の中で、がんばって描いて美大に行こうとしている人から見たら、僕の絵は取るに足らない下手くそな絵で「絵の具の無駄」と云われた(当時その人は意中の人だったので憎めなかったんだな、そんなこと云われても)。まあ、確かに絵の具を大量に使って塗った後から削って下の色を出したりする変な書き方をよくしていたのでしょうがないのだが。しかし、滅多に絵についてコメントしない先生が一度ほめてくれたことがあって、それが僕にとってはずいぶんと嬉しかったのだ。
と、短歌日記なのに思い出話になってしまった。あの先生は、僕にとっての「僕の好きな先生」なのだ。最近、新聞の地方欄に油絵の何かの賞を取られたという写真入りの記事が載っていた。あのころと全く同じモチーフで訳わからん絵だったから可笑しかったけれど。